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食べることとみことばに従うこと

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祈り会でメッセージを語りしました。 2020年6月24日の祈り会 タイトル:「食べることとみことばに従うこと」 聖書箇所:出エジプト記16:1-5 聖書をお読みします。 ≪イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。 そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」≫(出エジプト記16:1−5)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 生きていくために必要こととして 食べることと飲むことがあります。 荒野を旅している民にとって食べることは深刻な問題でした。 食べることができなければ死んでしまうからです。 彼らはモーセとアロンに不平を言いました。 荒野で飢え死にするくらいなら エジプトで死んだほうがよかったと彼らは言ったのです。 人間は不平を言うものです。 しかし、このモーセとアロンに向けられた不平に対して 神様は即座にモーセに言葉をお与えになります。 出エジプト記16:4−5 ≪「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」≫(出エジプト記16:4−5) この言葉の通り天からの食べ物が与えられました。 それを民はマナと呼びました。 毎日、天から食べるものを降らせてくださったのです。 実に彼らが荒野を旅した40年間もの間、 マナが与えられ続けられました。 しかし、マナの不思議なところは、 翌日は腐ってしまうということです。

下に根を張り、上に実を結ぶ。

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下に根を張り、 上に実を結ぶ。 博多ニューライフ教会の2020年の標語です。 半年が過ぎようとする今、 いろいろな出来事を通して、 下に根を張ることの大切さを教えられ、 主によってこの御言葉の成就を信じて 歩ませていただいているなと思います。 約束の御言葉のごとく、 下に根を張り、 豊かな実をむずばせてくださいますように。

水の中に投げ込まれた一本の木

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今週の祈り会でメッセージをお語りしました。 2020年6月17日20:00~ 「水の中に投げ込まれた一本の木」 聖書箇所:出エジプト記15:22−27 聖書をお読みします。 ≪モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。 モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、 そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。≫(出エジプト記 15章 22〜27節) 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 「民はモーセに向かって不平を言った。」とあります。 なぜ不平を言ったのでしょうか。 飲むための水が見つからなかったからです。 しかも、やっと見つけたと思った水も 飲んでみると苦くてとても飲むことのできなる水ではなかったのです。 彼らの唇から不平が放たれたのです。 この時から3日前、 彼らの唇からは賛美がとめどなくあふれていました。 彼らは素晴らしいことを体験したからです。 神様が海を分ける奇蹟を行ってくださり エジプトの軍勢から自分たちを守ってくださったのです。 素晴らしい賛美の歌を 彼らは歌っていました。 しかし、今や賛美の唇は 不平をつぶやく唇と変わってしまったのです。 ここに私たち人間の姿があらわされているのではないでしょうか。 私たちは、物事が順調に進んでいるときには感謝と賛美をささげるのですが、 問題が起こったり、物事が思いどおりにいかなくなったりすると 途端に不平があふれてくるのです。 言い方を変えると、 順調な時には隠れていた私たちの心の汚い部分が 問題がやってくるとたちまち表に出て

牧者の心を忘れぬように

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牧者の心を知るようにと 手作りの杖とこん棒(鞭)を頂きました。 "主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"  詩篇 23篇 1〜6節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

水の壁に守られた海の中の乾いた道

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祈り会でメッセージをお語りしました。 2020年6月10日(水)祈り会 「水の壁に守られた海の中の乾いた道」 聖書箇所:出エジプト記14:21−22 聖書をお読みします。 ≪モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。≫(出エジプト記14:21−22) 神様は不思議なことをなさるお方です。 海の中に乾いた道をつくられました。 その道の両側は水でできた壁でした。 この道をイスラエルの民は歩き、 向こう岸へと渡ったのです。 彼らのおかれていた状況は、危機的な状況でした。 もうだめだという状況です。 後ろからエジプトの大軍勢が近づき、 死を覚悟しなければならなかったのです。 現実を目の当たりにしていたイスラエルの民は モーセに不平をいいました。 「なぜ自分たちをこんなところに導いたのか」と。 彼らはもう諦めていたのです。 しかし神様は驚くべきことなさいました。 海に乾いた地をつくられたのです。 海が目の前からなくなったわけではありません。 海の水がなくなったわけでもありません。 そこには現実に海があり、海の水があったのです。 しかし、神様は強い東風によって水を分け、 海のただ中に乾いた地をつくられたのです。 イスラエルの民がみていた現実は全く変わりませんでした。 確かに海はあり、海の水はあったのです。 そして追っ手であるエジプト軍は追い迫っていました。 しかし、この現実の中に神様はきてくださいました。 信仰とは現実を無視することではありません。 神様は今私たちが生きている現実のただ中に入って来てくださって 助けを与えてくださるお方なのです。 現実をしっかりみて、現実を受け入れ、その上で、 それでも神様はその現実の中に介入くださり 助けを与えてくださると信じることができるのです。 「それでもなお、神様は私たちを助けてくださる」と 信じる事が出来るのです。 私はそれを「それでもなお、の信仰」と名付けています。 こういう問題がある。こういう不利な状況がある。 こういう動かしがたい現実がある。 これら全てが自分を追い込み、自分の行く道を閉ざしていたとしても、 「それでもなお、神にはおできになる」と神様に信頼するものでありたいと思