水の中に投げ込まれた一本の木

今週の祈り会でメッセージをお語りしました。

2020年6月17日20:00~

「水の中に投げ込まれた一本の木」
聖書箇所:出エジプト記15:22−27

聖書をお読みします。

≪モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」
こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。≫(出エジプト記 15章 22〜27節)
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会



「民はモーセに向かって不平を言った。」とあります。

なぜ不平を言ったのでしょうか。
飲むための水が見つからなかったからです。
しかも、やっと見つけたと思った水も
飲んでみると苦くてとても飲むことのできなる水ではなかったのです。

彼らの唇から不平が放たれたのです。

この時から3日前、
彼らの唇からは賛美がとめどなくあふれていました。

彼らは素晴らしいことを体験したからです。
神様が海を分ける奇蹟を行ってくださり
エジプトの軍勢から自分たちを守ってくださったのです。

素晴らしい賛美の歌を
彼らは歌っていました。

しかし、今や賛美の唇は
不平をつぶやく唇と変わってしまったのです。

ここに私たち人間の姿があらわされているのではないでしょうか。
私たちは、物事が順調に進んでいるときには感謝と賛美をささげるのですが、
問題が起こったり、物事が思いどおりにいかなくなったりすると
途端に不平があふれてくるのです。

言い方を変えると、
順調な時には隠れていた私たちの心の汚い部分が
問題がやってくるとたちまち表に出て来るのです。

私たちの心は自分勝手で、意地悪さを隠しもっているのではないでしょうか。

旧約の預言者であるエレミヤは人間の心について次のように言っています。
≪人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。≫(エレミヤ書17:9)

私は自分をふり返ると全くこの御言葉の通りだと思います。
私たちは時に自らのねじ曲がった心に気づくことがあるのではないでしょうか。
また、なぜそのような仕打ちを受けなければならないだろうかと思うようなことを
人からされたこともあるのではないかと思います。

とても残念なことですが、これが私たち人間の心の現実なのです。

このような心をもっている私たちに救いはあるのでしょうか。

民の不平に対してモーセは、どのようにしたでしょうか。

≪モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。≫(出エジプト記16:25ab)

モーセは主に叫びました。
モーセは神様にとりなしたのです。

神様に対する不平がそのままであったならば何の解決もなかったことでしょう。
苦い水は苦いまま、その不平はどんどん広がっていったことでしょう。
そしてその不平は終わりなく続き、解決のないまま民は滅びたかもしれません。

しかし、彼らにはモーセがいてくれました。
すなわち神様にとりなしてくれる存在がいたのです。

とりなしてくれる存在がいる、
それは、ねじ曲がった心をもっている私たちにとって大きな恵みです。
そこに解決への望みが生まれるからです。

また私たちは他の人のねじ曲がった心から発せられる言葉を
聞くことがあるかもしれません。
そんなとき、私たちは神様に叫ぶ者とならせていただきたいと思います。
モーセのように神様にとりなす者とさせていただきたいのです。
神様が不思議な方法で助けてくださるからです。

また、神様はご自身を「わたしは主、あなたを癒やす者だ。」と言われました。
確かに神様はモーセに1本の木を示し、
それを水の中に投げ込ませることによって
飲めない苦い水を、甘い水に変えてくださいました。

私たちはこのお方によって
いやし難いと思えるこのねじ曲がった心の癒やしを、期待することができるのです。

苦い水を甘い水に変えられた神様は、
民に掟と定めを授けられたと記されています。
そして、「あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、
主の目にかなうことを行うように」
また「その命令に耳を傾け、
その掟をことごとく守るように」とお命じになりました。

私たちのねじ曲がった心に必要なのは神様の言葉なのです。
神様は私たちの心に御言葉を届けて
癒しのわざをなさろうとされているのです。

たとえ私たちの心がねじ曲がっており、
癒しがたいものであったとしても、
神様の御言葉には力があります。

水の中に神様が示された1本の木を投げ込んだとき、
苦い水が甘い水に変わったように
私たちの心に神様の御言葉が届くとき、
私たちのねじ曲がった心が愛と義に満ちた心と変えられることを
信じたいと思います。

私たちの主は癒すお方であり、
このお方はご自身の御言葉を通して
ご自身のわざを行われるからです。

≪人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。≫(エレミヤ書17:9)

自分のねじ曲がった心に気づき認める事は痛みの伴うものです。
しかし、それは決して悪いことではありません。

神様はときに私たちの日々の生活の中に問題を投げ込まれ、
私たちの心の陰険さを明らかになさることがあるのです。

それは私たちを落胆させることでしょう。
しかし、このような私たちに神様は助けの道を用意くださっています。
私たちのねじ曲がった心のためにとりなしてくださるイエス様がいてくださいます。

私たちが誰かのねじ曲がった心によって傷つけられることがあったなら
モーセにならい、神様に叫び、とりなす者とさせていただきましょう。
神様が解決のわざを行ってくださることを信じたいと思います。

また御言葉を心に蓄えるものでありたいと思います。
そしてその御言葉に自らの人生をおゆだねするのです。

神様は私たちの陰険な心にも働きかけて
癒しを与えてくださるお方だからです。

お祈りします。





June 17, 2020 Prayer Meeting
博多ニューライフ教会 (Hakata New Life Church)


♰説教題/Message Title : 「水の中に投げ込まれた一本の木」 
♰ 聖書箇所/Key Scripture   :  聖書箇所:出エジプト記15:22−27
♰ 説教/Preaching :   長澤聖志 牧師 Ps. Satoshi Nagasawa



コメント

シェルテイ大好き さんのコメント…

博多ニューライフ教会の礼拝と祈祷会は素晴らしいです。賛美 お祈り メッセージ 聖霊に満たされています。
私は打たれ弱い・・調子の悪い時は神様をも忘れ祈れないです。捻じ曲がっている心 ねたむ心 不平を言う心不平の原因を探す心  調子のよい時は調和がとれていても不調になると凸凹。これが人の心でしょう。
人の心は凸凹なんだと思います。イスラエルの民も今の私たちも。人の心は捻じ曲がっています。そんな人間に神様は憐れみをかけてくださる。と信じて歩んでいきたいです。 出エジプト記の民を見ると私たちがどれほど捻じ曲がって恩知らずかわかります。そんな私たちを神様は憐れみをかけて愛してくださる。ニューライフ教会の祈祷会礼拝がたくさんの方々に知られて用いられますように  心からお祈りします。 本当の平安と希望があると信じています。
ながさわ さんの投稿…
シェルティ大好きさん。
コメントありがとうございます。
僕も≪打たれ弱い・・・≫っても思います。
でも、なんだかんだで持ちこたえてきたので、
そういう意味では打たれ強いのかもしれません。

変な言い方ですが
自分は打たれ弱いと言える人は
打たれ強い人なのかもしれませんね。

倒れても立ち上がる者にさせていただきたいものです。

持ちこたえさせて頂けるのは
神様の助け合ってのこと、
恵みなのだと思います。


ながさわ さんの投稿…
神様の助け合ってのこと → 神様の助けあってのこと
変換間違いです。

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